しなやかに強く

 生きていくためのナラティブエッセンス集」より

 

 

 

 

挑戦をするために必要な「安全基地」

 

どうしたら、脳を若々しく

保てるのかというと、

そのヒントは赤ちゃんや子どもの

脳にあります。

 

(中略)

 

実は、子どもたちの脳が

元気なのには理由があるのです。

 

 

その秘密を担っているのが、

「ドーパミン」という物質です。

(中略)

 

私が脳科学を始めて22年経ちます。

 

STAP細胞で世間を騒がせた

理化学研究所で脳科学の研究を

始めたのですけれど、

脳科学の研究をしていたから、

挑戦するとドーパミンが出る

ということがわかっています。

 

 

ですから、小説やマラソン、

バラエティ番組やドラマなどに

挑戦しました。

 

しかし、挑戦することで

ドーパミンが出て脳にいい

という理屈がわかっても、

あるものがないと

挑戦することができないのです。

 

 

それは、

「安全基地」というものです。

 

 

脳の中に安全基地というものが

ないと挑戦できないのです。

 

さあ、ここからが脳科学の中でも

面白いところです。

 

 

人間は、安全基地が10あると、

10の挑戦ができるのです。

 

自分の中に安全基地が1しかないと

1の挑戦しかできないのです。

 

 

なぜ子どもは、

世の中のことも何も知らないし、

一人ではまだ何もできないのに

いろいろなことに挑戦できるのだと

思いますか。

 

 

それはお父さん、お母さん、

おじいちゃん、おばあちゃん、

先生、近所の人などから、

安全基地がたくさん

与えられているからです。

 

(中略)

 

子どもの脳がいちばん伸びるのは、

大人から安全基地をもらって、

 

あとは自由にやりなさい。

その代わり、お父さんお母さんが

見守ってあげているからね。

 

おじいちゃん、おばあちゃんが

見守ってあげているからね、

という環境です。

 

 

 

「説明物語」を確立することの重要性

 

医療人類学では

患者の体験する主観的な苦しみを

「病い(illness)」と呼び,

それに対して

生物医学的な観点から解釈される,

客観性を持った異常を

概念化したものを「疾患(disease)」

と呼ぶ。

 

NBMは患者の主観である

「病い」を重視することは

すでに述べたが7),決して

「疾患」を無視するわけではない。

 

しかし、NBMは

「客観的実在としての疾患」

というよりは,

「疾患についての物語」に焦点を当てる。

 

Aさんの主観的な苦しみである

「病い」は,主として

「腹部症状」と「うつ気分」から

なっていた。

 

それに対して,

それまで訪れた医療機関では,

Aさんの症状を説明する「疾患」

を発見するために

いろいろな検査が繰り返された。

 

しかし,10年間にも及ぶ

身体の不調に対して「疾患の物語」が

確立されることはなく,

常に「異常はない」,

「原因は不明」という説明が

繰り返されるばかりであった。

 

Aさんは自分自身の身体の不調を

説明できる「説明物語」を

確立することができず,

常に「何か重大な疾患を<
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見落とされているのではないか」

という不安に苛まれてきた。

 

この持続する不安が,

自律神経系や内分泌系を通じて,

消化器諸臓器の機能異常や

知覚域値の低下を来たし,

症状を慢性化させていたことは,

容易に想像できる。

 

(中略)

 

上記のように,

Aさんは自身の陥っている状態を

説明できる十分に有効な物語を

確立できずにいた。

 

そんなAさんと筆者との対話の中で

浮かび上がって来たのが,

「心と身体の悪循環」という

新たな説明物語であった。

(中略)

 

「説明物語」とは,一見自分の

おかれている状況を説明するという,

合理的な作業に役に立つものと

考えられがちであるが,

物語には必ず理性を超えた

感情的な次元がある。

 

原因不明の身体症状に悩まされる

多くの患者にとって,

「身体の病気があるに違いない」

という物語を放棄することは,

「説明物語の不在」という

より深い混沌状況へと

投げ入れられることを意味する。

 

このような状況は強い不安,恐怖を

誘発するし,時には深い抑うつ気分や,

自分の物語を否定された

ということに対する強い怒りなどの

感情に支配されてしまうこともある。

 

医療者がこのような患者の苦悩に対して,

真に共感的な態度を取りうる時,

初めて物語りの変容が

始まるのではないだろうか。

 

 

 

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 

 

 

 

たとえそれが、いわゆる

 

「疾患(disease)」であったとしても、

 

 

「私は○○という疾患を抱えている人間なのだ」

 

という、「説明物語」を確立できることは、

 

 

「自分が『何者』であるのか?を説明できる」

 

という「安心感」を感じるためには

 

とても大切なステップになる。

 

 

 

そして、

 

その確立できた「説明物語」を

大切に抱きしめることも、

 

 

「じゃあ、ここからどうするか?」

 

を考えたり、挑戦したりするための

足場となる「安全基地」を

大きくしていくためにも

 

とても大切なステップになる。

 

 

・・・

 

 

多くは人と関わっていくことで、

(直接の関わり以外にも、文章や映像などの

 表現の向こう側にいる人と関わっていくことで)

 

 

自分では気づけない自分に気づいたり、

 

 

自分の今までの人生をふりかえってみたりして、

 

 

「 “今の” 自分はこうなんだ」と、

 

 

 

その時の自分の感覚と

ズレの少ない「説明物語」を、

 

「安全基地」として携えていくことから

 

 

あるいはすでにあった「安全基地」に

「気づいていく」ことから、

 

 

まずは始めていきたい。

 

 

 

 

離発着(挑戦)する

 

飛行甲板(安全基地)は

 

広い方が安心だもんね。

(特に軍事的なメッセージは全くありません)